メキシコ回想 ― 夢が呼び起こした記憶

私はメキシコ生まれの日本人である。

生まれたのはメキシコ北部のモンテレイ。ただし、かの地で過ごしたのは生後わずか1年だ。この出自が自分の中で意味を持ち始めたのは、ずいぶん後になってからのことである。

7月10日、朝7時12分に目が覚めた。目覚める直前まで夢を見ていた。夢の中で、私はメキシコ人だった。いや、正確に言えば「だった」ではないのかもしれない。メキシコは出生地主義の国であり、かの国の憲法に従えば、メキシコで生まれた私は今もメキシコ人なのである。もっとも、日本の法律はまた別のことを言うのだが。夢の細部は、目覚めとともにほとんど消えてしまった。ただ、夢の中の私はどうやら裕福なメキシコ人で、日本人として見てきた世界とはまるで違う風景を見ていた――その感触だけが残っている。

目が覚めてから、たどり始めたのは現実の記憶である。私は日本人として、実際にアメリカで働いていたことがある。あの頃の私は、白人のアメリカ人を頂点とする序列の中で世界を見ていた。メキシコ人をはじめとするヒスパニックの人々に対しては、「国境を越えてきた不法労働者かもしれない」という目を、心のどこかで向けていたように思う。もちろん、労働許可証の有無を尋ねたことなどない。実際に接する彼らは人懐っこく、メキシコ料理は本当においしかった。今でもアメリカに行ったら真っ先に足を運びたい店は、エル・ポヨ・ロコ(El Pollo Loco)というメキシコ料理のファーストフード店だ。

アメリカ先住民については、詳しいことは知らなかった。実際に出会ったこともない。かつて居留地に閉じ込められていて、今は自由に暮らしているのだろう――その程度の漠然とした理解しか持っていなかった。そして当時の私は、白人が一番、黒人が二番、アジア人が三番、ヒスパニックが四番、アメリカ先住民が五番――そんなヒエラルキーがあるらしい、という見方をしていた。

後になって気づいた。それは、白人アメリカ人から見たヒエラルキーそのものだったのだ。自分がいかに刷り込まれた視点で世界を見ていたか。メキシコで生まれながら、その後一度もかの地を踏むことなく、外側からの曖昧なイメージだけで物事を眺めてきたことが、その一因だったのだろう。

2024年、思い立ってメキシコへ行った。「今行かなければ、おそらくもう行けなくなる」という漠然とした危機感があり、無理をしてでも行くことにした。訪れたのは、自分が生まれたモンテレイ、首都メキシコシティ、そしてスペイン語学校に通ったオアハカの3都市である。

行って初めて、メキシコの歴史がわかった。世界のどこに住んでいてもインターネットはあるし、書籍もある。学ぼうと思えば学べたはずだが、興味が湧かなかった。ところが、現地に立つと歴史は「自分事」になる。さまざまなメキシコ人と関わるうちに、それまでの見方が音を立てて崩れていった。

メキシコはスペインに征服された国である。メキシコシティの街並みはヨーロッパそのものだった。しかも、街を彩る様式はスペイン一色ではない。「この建物はフランス式ですよ」とガイドに教えられたときは、耳を疑った。後で知ったことだが、メキシコは19世紀にフランスの介入を受け、フランス風の建築が流行した時代もあったのだ。堂々たる建築がメキシコ固有の文化と融合し、不思議な魅力を醸し出していた。映像や文字だけでは、やはりわからないものがある。

私はスペイン語を話せない。ただ、幼稚園の頃、父の仕事の関係で2年間スペインに住み、現地の幼稚園に通っていた。家に帰れば日本語の生活だったが、耳から入ってくるスペイン語には、今も懐かしい響きがある。数なら数えられた。1から30まで――いや、その気になれば99まで。「私は日本人です」「スペイン語は話せません」といった基本的な表現もわかる。発音の特徴も、体のどこかで捉えているのかもしれない。しかし文法は知らない。定型文を言える程度だ。それでも、スペイン語の音の土台が自分の中にあるような気がしていて、いつかメキシコかスペインで学びたいと思っていた。だから今回、オアハカで過ごした3週間は、何十年も棚上げにしてきた宿題に、ようやく手をつけた時間だった。今はほとんど忘れてしまったが、当時は覚えたての表現を懸命に使おうとしていた。

だが、よく考えてみれば、スペイン語は征服者の言語である。メキシコにキリスト教徒が多いのも、征服者であるスペインが持ち込んだ宗教だからだ。歴史を知ってしまうと、あの美しい街並みへの親しみに、微かな痛みが混ざるようになる。

メキシコの人々は陽気で、初対面でも距離が近い。以前からそういうイメージはあったが、実際に行ってみて確信した。ただ、私はスペイン語を話せないので、コミュニケーションは基本的に英語に頼ることになった。英語を話せるメキシコ人は多くない。それでも何とかなった。英語はやはり世界の共通語だと実感する一方で、自分も含めて「英語に征服されてきたのだ」という思いも拭えなかった。

メキシコにいると、この国の歴史を学んでおきたくなる。普段はあまり足を向けない博物館にも行ってみた。モンテレイの博物館で、不思議な構図の絵画が目に留まった。白人と褐色の肌のメキシコ人、そしてその子供たち。白人と黒人、そしてその子供たち。同じ構図の絵が、延々と続いているのである。

ずいぶん後になって知ったのだが、これはスペインがメキシコを植民地化した際に徹底的に定めた「人種カースト」を描いたものだった。頂点は白人のスペイン人。スペイン人と先住民の女性の間に生まれた子はメスティソ、スペイン人と黒人の女性の間に生まれた子はムラート。このように社会階級が細かく、そして厳格に定められていたという。

当時も博物館で、Googleカメラの翻訳機能を使ってスペイン語の解説を日本語で読んでいたから、ある程度は理解していたはずだ。しかし3年後、YouTubeでアメリカとメキシコの歴史を扱った動画を見たとき、その解説と記憶がようやくつながった。なるほど、そういうことだったのか、と。

現在のメキシコで最も多いのはメスティソ、すなわちスペイン人と先住民の混血の子孫である。私は「メキシコ人とは、西洋人風の顔立ちをした褐色の肌の人々」だと思い込んでいたが、そうではなかった。それがわかったのは、先住民が多く暮らすオアハカを訪れたからだ。顔立ちが明らかに違う。アメリカ先住民に似ているというか、時に日本人にさえ似ている。メキシコで生まれた私が、メキシコの人々の顔をこれほど知らなかったのである。そして、そうした人々の多くが貧困に苦しんでいると知った。ここにも人種カーストが生きているのだ、と思った。

そして思い至った。私がアメリカで感じ取っていたあの序列も、これと無縁ではないのだろう、と。アメリカでも、かつては奴隷制やジム・クロウ法という形で、人種による身分が法律に明記されていた。1960年代の公民権運動で法的な仕組みは撤廃されたが、居住地域の分離や世帯資産の格差といった痕跡は、今も統計にはっきりと表れている。近年、アメリカ社会そのものを「カースト」として読み解く本が話題を呼んだのも、明文化されない序列が空気のように働いている、と感じる人が多いからだろう。もっとも、その序列は指標によって順位が入れ替わる曖昧なものだし、そもそもそんなものが存在するのかどうか、アメリカ人自身の意見も深く割れている。ただ、メキシコの博物館の壁には、序列がそのまま絵となって掛けられていた。明文化されたカーストと、明文化されないカースト。隣り合う二つの国は、同じものの二つの姿を見せているように思えた。

世界史をきちんと学んでいれば常識だったのかもしれないが、アメリカのテキサスやカリフォルニアは、もともとメキシコの土地だった。最初にスペインが征服して「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」の一部となり、1821年にメキシコがスペインから独立すると、これらの土地はメキシコ領となった。ところが、東海岸から入植し、西へ西へと勢力を広げてきたアメリカに、次々と奪われていく。テキサスは1836年に独立を宣言したのちアメリカに併合され、カリフォルニアなどの広大な土地は、米墨戦争(1846〜1848年)の敗北によってアメリカへ割譲されたのである。

そう考えていくと、アメリカ先住民とメキシコの先住民は、同じルーツを持つのではないか。調べてみると、どうやらその通りらしい。大昔にベーリング海峡を渡ってきた人々の子孫が大陸各地に広がり、メキシコではその中からマヤやアステカのような高度な文明が生まれた。そこへ、メキシコ側にはスペインが、北米側にはイギリスをはじめとするヨーロッパの人々が入り込み、先住民たちは次々と征服されていった。

アメリカ人のルーツは、主としてイギリス人である(もちろん、他のヨーロッパ諸国からの移民も含む)。そのアメリカが今や世界一の経済大国となり、英語は世界の共通語となった。日本も例外ではなく、「英語ができれば強い」と、こぞって英語を学んでいる。実際、さまざまな国を訪れてわかったのは、英語ができれば確かに強いということだ。端的に言えば、職に就けるのである。

ただし、条件がある。日本国内では、英語ができること自体が武器になる。メキシコでも同じで、英語ができれば職の幅が広がる。ところが、アメリカやイギリスでは、英語ができるのは当たり前で、評価の対象にすらならない。「英語ができるのは前提。それで、あなたは何ができるのか」と問われるのだ。日本で積み上げてきた英語力の値打ちが、国境を越えた途端に目減りする。その事実を、私は肌で知った。できて当然の世界では、できなければそもそも土俵にすら上がれない。

いずれにせよ、征服された側は、征服した国の言語を使うことになる。メキシコの公用語はスペイン語だが、オアハカなどに暮らす先住民はサポテコ語などの現地語を話している。アメリカ先住民には、部族ごとに固有の言語があった。数百に及んだというその言語は、しかし19世紀末からの同化政策――子供たちを寄宿学校に集め、母語を話せば罰する――によって英語に置き換えられ、多くが失われていった。

そんなことを考えていると、英語が話せないことに劣等感を抱く必要などないのではないか、という気もしてくる。しかし同時に、先に述べた通り、英語ができるということは「世界を征服した国の言語を操る」ということでもある。だから強いのだ。もっとも、その「強さ」の意味は、立つ場所によって変わる。日本国内であれば、交渉ができる一歩手前のレベルでも、英語力は十分に武器になる。しかし、一歩海外に出れば、そうはいかない。交渉の場で物事を自分に有利に進められるレベルに達して初めて、英語力が本当に生きる場面が増えていくのである。

メキシコ人として生き、メキシコ人の視点で世界を経験する――メキシコで生まれ、日本人として育った私が、そんな夢を見た。細部は思い出せなくても、ひとつだけ確かなことがある。夢の中の私の気持ちは、まぎれもなくメキシコ人の側にあった。かつて白人アメリカ人の視点を刷り込まれ、外側からメキシコを眺めていた人間が、夢の中では内側に立っていたのである。一度の旅は、視点の置き場所をここまで変えるらしい。ともあれ、この夢をきっかけに、ここまで一気に書き上げた。そういえば、メキシコでの経験をブログ記事にしようと思いながら、まだ書けていなかった。記憶を掘り起こしながら、少しずつ形にしていこうと思う。

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