私は「白人の視点」で世界を見ていた――メキシコ生まれの日本人が知った人種ヒエラルキー

7月10日の朝7時12分、私は夢から目を覚ました。

夢の中で、私はメキシコ人として生きていた。

「メキシコ人だった」というよりも、メキシコ人の側に立って世界を見ていた、と言ったほうが近いのかもしれない。

夢の細部は、目覚めるとほとんど消えてしまった。ただ、夢の中の私は裕福なメキシコ人で、日本人として眺めてきた世界とはまるで違う風景を見ていた。その感触だけが、鮮明に残っていた。

私はメキシコ生まれの日本人である。

1970年、メキシコ北部のモンテレイで生まれた。ただし、その地で過ごしたのは生後わずか1年にすぎない。

メキシコで生まれたという事実が自分の中で意味を持ち始めたのは、それから半世紀近く経ってからのことだった。

目次

54歳で初めて、生まれた国へ向かった

2024年、54歳になった私は、生まれて初めて、自分が生まれた国メキシコを訪れた。

「今行かなければ、おそらくもう行けなくなる」

なぜか、そんな漠然とした危機感があった。時間や費用の面で無理がないわけではなかったが、それでも行くことにした。

訪れたのは、私が生まれたモンテレイ、首都メキシコシティ、そしてスペイン語学校に通ったオアハカの3都市である。

最初に向かったのは、モンテレイだった。

生後1年しか過ごしていないため、街そのものについての記憶はない。それでも、自分の人生が始まった土地に初めて立つ感覚は、簡単には言葉にできないものだった。

モンテレイには、ここだけでは書ききれないほど多くの思いがある。そのことについては、いつか別の記事で、あらためて書きたいと思う。

世界のどこにいても、インターネットや書籍があれば歴史を学ぶことはできる。メキシコについても、知ろうと思えばもっと早く知ることができたはずだ。

けれど、それまでの私は、そこまで強い関心を持てずにいた。

現地に立って初めて、歴史が「自分事」になった。

街を歩き、人々と接し、自分が生まれた土地の空気を吸ううちに、外側から抱いていたメキシコのイメージが少しずつ崩れていった。

美しい街並みに残る、征服の記憶

モンテレイからメキシコシティへ移ると、街並みにはヨーロッパの影響が色濃く残っていた。

重厚な石造りの建物や大聖堂、広場を中心に広がる都市の風景。その多くは、スペインによる植民地支配の歴史と切り離すことができない。

しかも、街を彩る建築はスペイン風だけではなかった。

現地のガイドから「この建物はフランス式です」と教えられたとき、私は意外に思った。後から知ったことだが、メキシコには19世紀にフランスの介入を受け、フランス風の文化や建築が好まれた時代もあったという。

ヨーロッパ風の堂々とした建物が、メキシコ固有の色彩や文化と溶け合い、独特の魅力を生み出している。

映像や写真を見るだけでは、やはり分からないものがある。

私はその街並みを美しいと思った。

しかし、歴史を知るほど、その美しさを手放しでは称賛できなくなった。

現在、メキシコで広く使われているスペイン語も、キリスト教が深く根づいていることも、スペインによる征服と密接に結びついている。

美しい街並みは、文化が混ざり合った結果であると同時に、征服した側の価値観が刻み込まれた風景でもある。

そのことを知ってから、街並みに抱く親しみの中に、わずかな痛みが混ざるようになった。

博物館で見た「人種カースト」の絵

メキシコにいると、この国の歴史をきちんと学びたくなった。

普段の旅行ではあまり足を向けない博物館にも行ってみた。

モンテレイの博物館で、私は不思議な構図の絵画に目を奪われた。

白人と褐色の肌の人、そしてその子ども。

白人と黒人、そしてその子ども。

親子を描いたよく似た構図の絵が、冷たいグラデーションのように何枚も並んでいる。

スマートフォンの翻訳機能を使って解説を読んでみると、それらはスペイン植民地時代の「カスタ絵画」と呼ばれるものだった。

そこに描かれていたのは、出自や混血の組み合わせによって人々を分類する、人種カーストの世界である。

頂点に置かれたのは、スペインから来た白人だった。

そこから、植民地生まれの白人、先住民、アフリカ系の人々、そして異なる背景を持つ人々の間に生まれた子どもたちが、細かく分類されていく。

人間が血筋や肌の色によって仕分けられ、その分類が社会的な立場と結びついていた。

その仕組みを知った瞬間、私は背筋が冷たくなるのを感じた。

そして、かつてアメリカで働いていた頃の記憶が、鮮烈によみがえった。

私が信じていた「見えない序列」

アメリカで働いていた頃、私は白人のアメリカ人を頂点とする、見えない序列の中で世界を見ていた。

メキシコ人をはじめとするヒスパニックの人々に対しても、心のどこかで「国境を越えてきた不法労働者かもしれない」という偏った見方をしていたように思う。

もちろん、本人たちに事情を確かめたことはない。

実際に接した人々は親しみやすく、メキシコ料理も本当においしかった。今でもアメリカに行けば真っ先に立ち寄りたい店のひとつは、エル・ポヨ・ロコだ。

それでも私は、白人を頂点として、人種や民族による目に見えない序列が存在するかのように、漠然と思い込んでいた。

アメリカ先住民についても、当時はほとんど知識がなかった。実際に出会ったこともなく、居留地や同化政策の歴史についても、断片的にしか理解していなかった。

後になって気づいた。

私が持っていたのは、白人アメリカ社会の側から世界を見る視点だったのだ。

自分が主体的に作り上げた価値観だと思っていたものの中に、社会から刷り込まれた序列が入り込んでいた。

博物館の壁に掛けられた、明文化された植民地時代の人種カースト。

そして現代のアメリカ社会や、かつての私の心の中に存在していた、明文化されない人種ヒエラルキー。

隣り合う二つの国は、同じ歴史の表と裏を見せているように思えた。

オアハカで出会った、先住民の面影

メキシコで最も多いのは、一般にメスティソ、すなわちスペイン系と先住民系の双方にルーツを持つ人々だと言われている。

それまでの私は、メキシコ人について「西洋人風の顔立ちをした、褐色の肌の人々」という漠然としたイメージを持っていた。

しかし、実際のメキシコ社会は、もちろんそれほど単純ではなかった。

そのことが実感として腑に落ちたのは、先住民が多く暮らすオアハカの街角に立ったときである。

行き交う人々の顔を見て、私は足を止めた。

それまで私が思い描いていた「西洋風のメキシコ人」とは、明らかに違っていた。

目元や頬骨、肌の色、佇まい。

その姿は、かつて教科書で見たアメリカ先住民を思わせた。

同時に、時には鏡の中にいる自分自身や、日本の田舎にいる親戚にも似ているように感じられた。

遠い異国にいるはずなのに、不思議な懐かしさがあった。

アメリカ大陸の先住民の祖先は、はるか昔にアジア方面から大陸へ渡った人々とつながりを持つとされている。

メキシコで生まれた私の中に、彼らと同じアジアをルーツとする遠い記憶が、かすかに共鳴しているような気がした。

しかし、その懐かしさと同時に、胸を締めつけられる思いもあった。

先住民の人々の中には、今なお社会的・経済的に厳しい環境に置かれている人が少なくない。

植民地時代のカースト制度は過去のものになっていても、その影響が完全に消えたとは思えなかった。

肌の色や出自、話す言語によって、教育や仕事の機会に差が生まれる。

博物館で見たカスタ絵画の世界は、姿を変えながら、現在にも影を落としているのではないか。

そう思わずにはいられなかった。

英語もスペイン語も、征服した側の言語だった

私はスペイン語をほとんど話せない。

ただ、幼稚園の頃、父の仕事の関係で2年間スペインに住み、現地の幼稚園に通っていた。

家に帰れば日本語の生活だったが、耳から入ってきたスペイン語には、今でも懐かしい響きがある。

数字はある程度まで数えられるし、「私は日本人です」「スペイン語は話せません」といった基本的な表現も分かる。

文法はほとんど知らず、定型的な表現を言える程度だ。それでも、スペイン語の音の土台のようなものが、体のどこかに残っている気がしていた。

いつかメキシコかスペインで、きちんとスペイン語を学んでみたい。

そう思い続けていた私にとって、オアハカでスペイン語学校に通った3週間は、何十年も棚上げにしてきた宿題に、ようやく手をつけた時間だった。

今では学んだ内容の多くを忘れてしまったが、滞在中は、覚えたばかりの表現を懸命に使おうとしていた。

けれど、メキシコの歴史を知るにつれて、一つの事実を意識するようになった。

スペイン語は、メキシコにとって征服者の言語でもある。

オアハカなどには、サポテコ語をはじめとする先住民の言語が今も残っている。

しかし、スペインによる支配の中で、政治や教育、宗教の言語として優位に立ったのはスペイン語だった。

それまで私は、スペイン語に対して、個人的な懐かしさや憧れを抱いていた。

だが、現地の歴史を知ると、その美しい響きの背後にも、言語を奪われた人々の存在が見えるようになった。

同じことは、英語にも言える。

メキシコでは、スペイン語を十分に話せない私は、コミュニケーションを英語に頼ることが多かった。

英語が通じれば、国籍の異なる人とも意思を伝え合うことができる。英語はやはり、現在の世界で非常に強い共通語なのだと実感した。

しかし、その強さは偶然に生まれたものではない。

イギリスによる植民地支配と、その後のアメリカの政治的・経済的影響力。その歴史の上に、現在の英語の強さがある。

アメリカ先住民にも、部族ごとに固有の言語があった。

しかし、寄宿学校などを通じた同化政策の中で、子どもたちは母語を話すことを禁じられ、英語を使うよう強制された。

多くの言語が失われ、あるいは消滅の危機に追い込まれた。

征服された側は、征服した側の言語を使うことになる。

メキシコではスペイン語が、アメリカでは英語が、支配的な言語になった。

そして今、日本に生きる私たちも「英語ができれば強い」と考え、必死に英語を学んでいる。

私自身も、英語は人生を切り開く強力な武器だと思っている。その考えは、今も変わらない。

英語ができれば、得られる情報も、人とつながる可能性も、仕事の選択肢も増える。

海外で問題が起きたときに、自分の立場を説明し、交渉する力にもなる。

ただし、その「強さ」とは何なのだろう。

世界で大きな影響力を持つ国の言語を使えること。

支配的なルールの中で、自分を有利な位置に置けること。

そう考えると、英語を操ることへの全能感は少し薄れ、その代わりに奇妙な虚しさが残った。

英語が話せないことに、必要以上の劣等感を抱く必要はない。

しかし同時に、英語が現実の世界で大きな力を持つことも否定できない。

大切なのは、その力を無条件に崇拝することではなく、どのような歴史の上にその力が築かれているのかを知ったうえで、自分のために使うことなのかもしれない。

日本国内であれば、ある程度英語で意思を伝えられるだけでも、それは十分に強みになる。

しかし、一歩海外に出れば、単に話せるだけでは足りない場面もある。

交渉の場で自分の立場を説明し、必要な情報を引き出し、物事を自分に有利な方向へ動かせる。

そこまで到達して初めて、英語が本当の意味で武器になる場面が増えていくのだと思う。

一度の旅が、世界を見る位置を変えた

メキシコで生まれた私が、メキシコ人として世界を経験する夢を見た。

細部はほとんど思い出せない。

それでも、一つだけ確かなことがある。

夢の中の私の気持ちは、まぎれもなくメキシコ人の側にあった。

かつての私は、白人アメリカ人の視点を無意識に取り込み、外側からメキシコを眺めていた。

しかし、実際にメキシコを訪れ、街を歩き、人々と出会い、植民地支配や人種カーストの歴史を知ったことで、私が世界を見る位置は少しずつ変わっていった。

メキシコ人を「国境を越えてくる人々」として見ていた私は、アメリカ南西部の広大な地域が、かつてメキシコ領だった歴史を知った。

メキシコ系アメリカ人の間には、こんな言葉がある。

“We didn’t cross the border. The border crossed us.”

「私たちが国境を越えたのではない。国境の方が、私たちを越えていったのだ。」

この言葉を知ったとき、それまで私の中にあった「越境するメキシコ人」という一方向の見方が、大きく揺らいだ。

国境は初めからそこにあったわけではない。戦争と併合によって線が引き直され、もともとそこに暮らしていた人々は、ある日突然「国境の向こう側の人間」になった。

スペイン語や英語を便利な共通語として見ていた私は、その背後に、征服された人々の言語が失われてきた歴史があることを知った。

そして、自分は偏見を持たない人間だと思っていた私が、実は社会の中で作られた序列を、知らないうちに自分の中へ取り込んでいたことにも気づいた。

旅に出たからといって、歴史のすべてを理解できるわけではない。

一度の訪問だけで、メキシコ社会を語り尽くせるはずもない。

私が見たものも、考えたことも、一人の旅行者としての限られた経験にすぎない。

それでも、現地に立ったことで、それまで知識としてしか存在しなかった歴史が、初めて自分自身の問題として見えるようになった。

一度の旅は、視点の置き場所をここまで変えるらしい。

目覚める直前、私は夢の中でメキシコ人として生きていた。

あれはもしかすると、メキシコへの旅を経て、ようやく私の中に生まれた、もう一つの視点だったのかもしれない。

旅は、景色を見るためだけのものではない。

自分がどんな視点で世界を見てきたのかに気づくためのものでもある。

この夢をきっかけに、私はここまで一気に書き上げた。

メキシコでの経験をいつかブログに書こうと思いながら、これまで形にできずにいた。

これから記憶を掘り起こしながら、モンテレイ、メキシコシティ、オアハカで見たものを、少しずつ言葉にしていこうと思う。

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