バックパッカー旅行 ベトナム~インド編

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1997年:中国からベトナムへ

VISAが手配できたころに南寧まで戻り、晴れてベトナム行の国際列車に乗り込みました。

中国とベトナムの国境付近で10ドルの賄賂を要求されて腹が立ちましたが、払わないとベトナムに入国できなかったので背に腹は代えられず渋々と払いました。1か月の中国の旅が終わり、ここからベトナムの旅が始まるのかと思うと怖くもあり、楽しくもあり、ドキドキしながら列車で国境超えをしました。この列車の中で行先を同じくする日本人の旅人と出会ったのでハノイの宿まで一緒に行動することになりました。言葉も通じない国で同胞に会うのは心強いものです。

無事ハノイに到着した私たちはとりあえず安宿にチェックインしました。そこで、私は旅立つ前から実行したかったことを決行したのです。それは頭を丸めるということでした。どうしてそんなことをしたかったかというと、理由は単純で、日本で働いていると女性が丸坊主にするなんて受け入れて貰えないからどうしても旅行中に試してみたかったのです。

実際、剃髪すると一休さんのようになってしまい、レストランなどではベトナム人から「どこのお寺から来たのですか?」と聞かれる始末で恥ずかしくなりその後はターバンを頭に巻いての旅を続けることになりました。

ベトナムでは、ハノイからホーチミンまで乗り降り自由なバス周遊券で気ままに行きたい街に立ち寄りながら1か月半の旅をしました。その後、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシアと旅を続けることになるのですが詳しくは別サイトにてご一読ください。当初の予定では世界一周旅行を目指していたのですが、資金も体力も底をつきかけたので一旦インドネシアから資金稼ぎのために日本帰国をすることになるのです。

この時点では私は27歳でした。世間の同年代は会社でキャリアを積んでいるのに私は一体何をやっているのか焦りもありましたが、一旦目指した旅を続けたい一心で半年間派遣社員などで稼いだ資金を片手に次はインドに飛びました。世界中に様々な国がある中でも、インドだけは外せないと思っていました。

日本のように整備されおらず、野良牛が街を徘徊し、ガンジス河では死体が流れているような常識を覆されるような世界に身を置いて自分が何を思うか自由に観て、聴いて、感じてみたかったのでしょう。日本は敷かれたレールの上を歩まなければいけない何か窮屈な感覚があり、そこから抜け出したい一心だったと思います。インドに行けば何かが変わるのではないか?という期待感もありました。

1998年:念願のインドはカルカッタから

インドは当時のカルカッタからマドラスまで電車やバスを乗り継いで気ままな旅をしましたが、ある時、私が求めていた大きな変化が訪れたのです。南インドのとあるビーチで宿泊していた時に、私以外は皆欧米人でした。夕食後は殆ど毎晩キャンプファイヤーを囲みお喋りに興じていたのですが、ある日、誰かの発案で今まで訪れた旅先で一番面白かったエピソードを一人ずつ発表しようということになったのです。私は慌てました。

英語力もオーストラリア時代よりはかなりついていましたが、大人数の前で発表できるほどではなく、自分の番になったらパスさせてもらおうと思っていました。が、みんな私の話しを聞きたいとのことで、雰囲気的に話さざるを得ない状況に追い込まれたのです。その時に、顔から火が出るほど恥ずかしかったように思いますが何とか英語で話しをすることができました。そして皆から面白い話しだったと口々に言って貰えたことで、大きな壁を乗り越えられたと感じたのです。

1年半も旅をしていると、行く先々で英語で意思疎通をせざるを得ないので否が応でも上達しますが、先ずはその壁を打ち破らなければなりません。恥ずかしがって話さなければ、当然の如く「話せない状態」が続くだけです。英語で問題解決ができるという自信は付きましたが、大勢の前でスピーチをするということは別物です。まさか旅先でこんな状況になるとは思いもよらず、いま思えば良い体験ができたんだなぁと思います。

道中、さまざまな苦労を乗り越えていきましたが、最終的にはある理由で4か月目に日本に戻ることになりました。インド編も別サイトで詳しく書いていますので、ご興味がある方はこちらからご一読くださいませ。

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