【中国編】バックパッカー旅行 

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1996年:上海~重慶~貴陽~昆明~大理~南寧~陽朔

不足資金は行く先々で仕事を見つけて稼ぎながら移動すればいいや、という安易な考えで

したがこれから飛び込む道の世界に恐怖の入り混じった期待感が膨れていました。結局、沢木耕太郎と同じルートは辿りませんでしたが、中国から入りユーラシア大陸を抜けてヨーロッパを目指すつもりでした。

神戸港から鑑真号という船に乗り2泊3日かけて上海に向かいました。今はLCCで高松→上海がセール時など数千円で行ける時代なので比較になりませんが、当時、乗船時間が長いとしても片道1万8000円は破格の料金でした。船内には20代のバックパッカーが7人居ましたが私以外、全員男性でした。似たような境遇同士、船内の食堂で直ぐに打ち解けて、上海到着したら皆で同じ宿に向かうことになりました。

道中、私以外は皆、地球の歩き方など持参していることに気付きました。

私は無謀にもガイドブックも持たずに旅立ったのです。中国では筆談ができるから大丈夫だろう、と楽観視していたのです。インターネットもない時代だったので宿泊先も探せません。何を考えていたのか良く分かりませんが、そんな旅立ちでした。

どうしてバックパッカー旅行など、馬鹿なことをしたんだろうと後悔した時期もありましたが、いま振り返ると書いているそばから当時のドキドキ感が蘇り楽しかったことしか覚えてないことに気付きました。これでいいのだ、という気持ちで自信を持つことも必要ですね。

上海の宿に無事チェックインし、レストランでは各々の旅の予定を話したり、情報交換したりしました。今回の旅のテーマは「飛行機を使わない」「行った先で移動費を稼ぎながら旅を続ける」と決めていたので、翌日の予定は上海の人材紹介会社に登録しに行くことでした。

上海で就職活動

実は、出発前に英字新聞Japan Timesで「Job in Shanghai」という広告を見つけたので、登録しにいくつもりで日本語と英語の履歴書を10枚セット準備してきたのです。ノートパソコンも無い時代だったのでA4の紙に印刷したものをクリアファイルに入れてバックパックの中に忍ばせていました。

人材紹介会社には、日本を発つ前に電話でアポを入れていたので予定通り面談することができました。担当者は日本語が流暢な中国人でした。上海なら、中国語が話せなくても英語が話せたらトヨタやホンダなど著名な企業で日本人駐在員のアシスタント的な仕事を紹介できると言われました。

給料も現地採用レベルでそれほど悪くなかったので少し働いてみようかな、と思いましたが当時の上海はかなり大気汚染がひどく、空もスモッグで灰色がかって見えたので、ここに長居したくないと感じました。しかも英語を使う機会を求めて日本を飛び出してきたのに日系企業で日本人付きのアシスタントとして働けば、オーストラリアの二の舞になってしまう、という恐れもあり上海で働くことは断念しました。

1996年の中国は、人民服を着た人がまだ居たし、道端で囲碁やマージャンやっているオジサン達も沢山いたし、安くて美味しいものが手軽に食べられる屋台が立ち並ぶ街並みなどなど、見るもの全てが衝撃的でした。実は、大学1年生の時に中国語を履修したのですが、発音でつまずき、文法もお手上げとなり成績は最低のDでした。今後、中国語を使う機会はないし、大学2年生以降は二度と勉強するまい、と思っていました。が、まさかここで大学時代に学んだ成績Dの中国語が役に立つとは思いませんでした。

英語の発音についての記事を書いているつもりが、いつの間にか中国のことばかり書いてしまっているのですが、実に12年後に私は駐在員として中国で仕事をし、発音の基礎から学ぶ機会に恵まれようとはこの時は夢にも思っていませんでした。そして、ここで、発音が如何に重要か、を身をもって体験することになるのです。

話しを元に戻しますが、上海では働かない、と決めた後、夜行列車で重慶・貴陽・昆明と移動し、長距離バスで大理まで行きました。大理から昆明までまたバスで戻り、南寧まで夜行列車で移動しました。

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