【大学時代】ワーホリ先で英語力の無さを痛感

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【大学時代】9か月間のワーキングホリデー体験

努力の末、晴れて希望の大学に合格しましたが大学の授業は高校の延長のような内容だったので、興味を持てず1年で退学したいと思うようになりました。当時、父がベルギーで仕事をしており、ベルギーの公用語は英語とフランス語なので現地に行きたいと母にお願いしましたが聞き入れられませんでした。

このような経緯があり、大学の勉強に興味を失ってしまい3年生までズルズルと力が入らない状態が続いてしまいました。友人たちも本気で英語を習得するというより学生時代を謳歌していたので、例に漏れず私もうつつを抜かしていた時期だったと反省しています。

ところが、殆どの友人が4年目を休学して海外に行くという展開になり、私も流れで海外に行きたいと思い始めました。ただ、どの国に行きたいなどという明確な目標はなく、何となく英語圏で英語を学べたらいいな、という程度の考えしかありませんでした。

一方、しっかり者の親友は、オーストラリアにワーキングホリデーしに行くプランを立てていたので私もそうしようかなと思い始めました。当時、ワーキングホリデーVISAで行ける国はカナダ・ニュージーランド・オーストラリアの3国に限られていて、今のように選択肢がありませんでした。そこで私は消去法で考えて、カナダは寒いので無理だし、ニュージーランドは仕事が無さそうなので止めておこう、残るは比較的暖かくて仕事も有りそうなオーストラリアだけかな、という安易な考えでオーストラリアに決めたのです。

ところが、親友はオーストラリアに行かずバックパッカーで世界一周旅行に行くことにしたのです。当時の私は海外に対する恐怖心の方が大きかったので女一人で世界一周など、自分には到底無理だと思っていました。比較的安全なオーストラリアでさえ、一人で行くのは気持ちの負担が大きかったと記憶しています。

英語専門の学生なのに英語が聴けない話せなくて完全自信喪失

安易に決めたオーストラリアではありますが、VISAの手配等々も済み、とうとう出発の日が来ました。ワーキングホリデーVISAで13か月間現地滞在できるのですが、休学期間は1年なので11か月滞在予定にしていました。先ず、メルボルンでホームステイをして、1か月間は語学学校に通い、英語に慣れたらその後仕事をしようと思っていました。

大学3年間、あまり真面目に英語の勉強をしていなかったと先に書きましたが、それでも中学~高校で成績が良かったので自分はある程度できている、という根拠のない自信がありました。ですがメルボルンで出迎えてくれたホストファミリーと会った瞬間、その自信は粉々に砕けました。どれほど英語で会話ができないか、という現実に初めて直面したのです。

大学や日本国内の英会話学校で教えてくれるネイティブ講師は、生徒のためにかなりスピードを落として、丁寧に分かりやすく話してくれていたから自分はある程度聴きとれるという錯覚に陥っていたんだ、と思い知らされました。どうしてかと言うと、ホストファミリーの言ってることも聴きとれなかったからです!!

更にショックだったのは、私の英語も相手に通じていないということでした。日本ではネイティブ講師には通じていたのにどうしてオーストラリアでは通じないの? という大きな疑問にぶち当たりました。単語も文法も正しく使っているのにどうして通じないんだろう? と悩みに悩んだものです。何人ものオーストラリア人やその他の外国人から指摘されるうちに、その原因は発音にあるということに気付いたのです。

特に、発音には自信があっただけにショックも大きかったです。

良く言われたのが「君の発音はいいけど単語1つ1つ区切りながら話すから、センテンスとして意味がつかみ難い」ということでした。当時は、音が繋がると変化するなんて知らなかったので、1つ1つの単語をクッキリハッキリと発音していましたが、それではダメだということがだんだんと分かってきたのです。また、正しいと思っていた単語の発音自体、思い込みで間違った発音をしていたこともありました。

もちろん、会話が成り立たない要因は発音だけではありません。語彙力の無さ、文法力の弱さ、ネイティブ的表現を知らなかった等々、有りますが自分のあまりの無力さに焦りばかりが先走り、来る日も来る日も「どうして私はこんなにできないんだろう」と、気持ちばかりが焦り、自分自身に「英語ができない私」というレッテルを貼るようになっていきました。

英語に慣れるため、1か月だけ学んだ語学学校では韓国人、タイ人、中国人などのアジア系の学生や、中東系やアフリカ系の学生も居ましたが日本人も数名居ました。英語が話せないうちは、10分英会話をするのも疲れるものなので結局は日本人同士でつるむ様になり、学校でも休日でも日本語を話すようになっていました。

ホームステイ先のオーストラリア人ファミリーは本当に親切で、特にお母さんが良く面倒をみてくれました。休日には5歳の娘さん(ジェニー)と7歳の息子さん(ニッキー)、そしてお父さんも一緒に家族で観光やピクニックに連れていってくれたり、お母さんは美味しい手料理を毎日のように作ってくれたりしていました。本来であれば、楽しい筈なのに英語で会話をしなければならないという苦痛の方が先立ち、休日に誘って貰っても断ってついつい日本人の友人と遊びに出かける始末でした。今思えば、なんて勿体ないことをしたんだろうと悔やまれてなりませんが、当時の私は英語で話すことがそれほど苦痛だったのです。

1か月というのは、本当に速いもので瞬く間に語学学校も終わりに近づきました。

日本人ばかりですが本当に良い友人もできて名残惜しいのでもう2週間延長して学校に通いましたが「日本語を話す環境から離れないといけない」という焦燥感に突き動かされるようにパースに行く決意をしました。友人らは「パースに行っても仕事は少ないよ。せっかくここで慣れてきたんだからメルボルンで仕事探せば?せっかく友達もできたんだから。」と言ってくれたにもかかわらず、私は振り切ってパースに行ってしまいました。

パースでの苦い思い出

全く知人もいないパースに行き、最初はゲストハウスに泊まりました。そこで知り合いになったタイ人と日本人の2人組からファームステイするから一緒に行かない?と誘われたのですが、日本語を話さないことを目標としていたので断ってしまいました。その後、仕事を探しましたが本当に仕事は少なく、日本食レストランのウェイトレスしかないような状況でした。とにかく日本語から離れる、という目標があったので日本食レストランは避けたく、他の仕事にせっせと応募しました。

当時の英語力ではまともな会話をすることはできなかったと思いますが、とにかくチャレンジしようと、オーストラリア人向けの求人に応募していました。が、どこに電話をかけても「あなたは専門技術も無いし、第一英語もまともに話せないから難しいですね」と一蹴されておしまいでした。そのうちに気持ちも萎えてきて、あの時のタイ人と日本人の2人組と一緒に農場巡りに行けば良かったな、と悔やむようになりました。

その後、ホームステイ先を見つけオーストラリア人の旦那さんと日本人の奥さんと息子さん1人の家庭で住みこむことになりましたが、当初の条件を超えた仕事を押し付けられたのでほどなく出ることになりました。住む場所を探しているとタイミング良く、日本語を勉強しているオーストラリア人の大学生(女性)とフラットシェアをすることができました。

一方、仕事が見つからなかったので時間を持て余しても仕方がないので運転免許を取ることにしました。オーストラリアは日本のように自動車教習所がないので、運転の個人指導をしてくれる先生を探し、時間ごとに講習料を払うようなしくみになっています。私が依頼した先生は韓国人の男性でした。

韓国人の指導員は英語が流暢で、とても優しい方だったので私の下手な英語にも気長に付き合ってくれました。運転技術のほかに他愛もない話しもしていたように思いますが、言いたいことが口から出てこなくてストレスばかり溜まりました。フラットに戻ると日本語を話すシェアメイトと日本語交じりの英語で会話するのが気楽でした。そうこうしているうちに、日本食レストランで働くことになりました。オーナーが中国人だったので会話は英語であるという点に妥協点を見つけたのでした。

ところが、英語でオーダーが聴き取れないし、2日目にコカ・コーラをお客様のスーツにぶちまけてしまい、気が小さい私は数日後に辞めてしまいました。免許センターで受けた試験は不合格となり、やることなすこと上手くいかず、パースで居ることに意味を見出せなくなっていきました。そして、とうとうここを出ようと決心しました。メルボルンの友人らを振り切ってパースに行ったのに、こんな無様な顛末情けない結果となってしまったので、メルボルンには戻れないな、と思い、シドニーに行くことに決めたのです。

シドニーで日本語ばかりの環境に苦悩

シドニーに行くと言っても誰も知り合いは居ません。当初、パースで知り合った日本人の旅人が、万が一シドニーに行くなら友人T(日本人)を頼ればいい、と言われていたのを思い出しました。シドニーで実際Tさんを訪ねていくと、快く面倒を見てくれました。

お陰で、格安で住む場所が見つかり、免税店での高時給の仕事に就くこともできました。生活が安定してくると、友人の輪も広がりビーチに行ったり、Jazz Barで音楽を聴いたり、と楽しい時間を過ごすことができましたが、それは私が最も避けたかった「日本人と日本語ばかり話す日々」だったのです。

オーストラリアに来て既に半年が来ようとしているのに日本語を話す時間が50%以上ある環境に危機感を覚え、せっかく落ち着き始めた日本人同士の共同生活から飛び出し、ヨーロッパ人しかいないシェアハウスに移ったのです。スウェーデン人2人、ドイツ人1人、イギリス人1人と日本人の私、という構成でしたが、私の拙い英語ではまともに会話についていくことができず、だんだん疎外感が増していきました。

免税店での仕事は梱包作業で、上司はエジプト人、同僚は中国人や日本人でした。ある日、エジプト人の女の子が入社し、上司から仕事を教えるよう指示を受けました。英語で仕事を教えるなんて、初めての経験なのでドキドキしましたが何とか上手くこなせたようで、次第に軽いお喋りをしながら仕事ができるほど慣れてきました。

Tさんのお陰で充実した半年を過ごすことができましたが、とうとう私にも日本帰国の日が来ました。オーストラリアに来る前に期待していたほど英語が話せるようになっていないけれど、時間切れです。自助努力が足りなかったと言わざるを得ません。免税店でできた日本人の友人たちも、口々に英語が上達しない危機感を感じながら1人、また1人と日本へ帰国していきました。

拠点を3か所も変えたのも反省点です。語学の習得が主目的だったのに、モヤモヤした気持ちを抱えながら遊んだり働いたり中途半端な生活を送ってしまいました。ワーキングホリデーという制度は、若い人の交流が目的なので1年間語学学校に行くことや、ガッツリ働くことは推奨されていません。ホリデーするための資金をバイトで稼ぐ、という趣旨のものなので私はまぁまぁ制度に則っていたかな?と自分を慰めながら帰路につきました。

英語力の無さがハッキリ分かったから本気になれた大学最後の1年

22歳の私は大学5年生になりました。ワーキングホリデーの痛い経験を覆す為に今までにないほど勉強に励みました。大学1~3年間はあまり真面目にやっていなかったのでTOEICの点数は英米語学科の学生としては公表するのも恥ずかし過ぎる350点でしたが、5年生でなんと700点が得点できたのです! ダメだった思い込んでいたオーストラリアの経験が、無駄ではなかったと分かった瞬間でした。そして、俄然やる気が湧いてきました。語学の上達度合いは自分では分からないものなので、テストの点数で判断するのも良いと思います。

大学5年生の私は猛勉強をしたので成績優良となり、学生課から交換留学を打診されるようになりました。1~3年の頃はやる気がなく遊び呆けていたので交換留学など手が届かない世界だと思っていたのに大学側からお声がかかるなんて夢の様でした。でも既1年間も休学した身なのでこれ以上、卒業を遅らせることはできません。それに、本格的な留学となるとそれなりに経費もかかるので資金的にも難しく、何よりもオーストラリアで辛酸をなめてきたので、こんな英語レベルで留学などしてもネイティブレベルの授業についていくことなど到底できないことが、容易に想像できたのです。結局は、交換留学は諦め、残りの時間は粛々と勉学に勤しみました。

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