2001年:憧れのアメリカ勤務は期待外れだった
晴れて正社員として採用され、意気揚々とロサンゼルスに飛びましたが面接で聞いた内容とは大きくかけ離れた状況に唖然としました。オフィスも無く、とにかく商品を持って飛び込み営業をかける、というものでした。左ハンドルの車を運転したこともないのですが、いきなり運転してL.A.中車で走り回ることになったのです。また、アパートは3人で1部屋を使うという共同生活でした。もちろん私は女性と部屋をシェアしていましたが、男性も3名で1部屋を使っていました。ただ、1部屋と言っても、20畳もある大きな部屋で3人使いでも十分スペースが余るほどで、狭い日本のアパート暮らしから解放された爽快感がありました。
右側通行での運転は最初は恐々でしたが、直ぐに慣れてL.A.のダウンタウンから郊外まで同僚を乗せて運転するようになりました。商材は敢えて伏せておきますが、主な売り込み先は中古車センターだったので郊外に出ることが多く、先ず目についたのがサボテンですね(笑) やっぱりL.A.は砂漠の上に建てられた街なんだ、と実感しました。中古車の経営者は中東の方が多く、彼らにとっても英語は第二言語なので一抹の安心感がありました。
ただ、日本から持ち込んだ商材がアメリカの風土に馴染まず(材質が弱すぎて)納品してもすぐに壊れることが多く「こんなゴミを売りつけるな!」と怒鳴られる始末。面接では市場調査済みで、直ぐに営業活動を開始できる状態になっている、と聞いていたのに話しが違うじゃないか、と憤ってみても時すでに遅し、現状で頑張るしかありませんでした。立上メンバーは私含めて5名おり、全員日本人。女性社員は英語がある程度話せるのに、男性社員はからきしダメでした。そのせいで、仕事はおろかプライベートでも男性社員の通訳もする羽目になりで精神的に重かったです。私自身、アメリカでの生活は初めてで自分のことも精いっぱいの状況で男性社員の食材・生活用品の買い物にも通訳のような立場で駆り出されてそれこそサービス残業代が欲しいくらいでした。
L.A.でビジネスを立ち上げた良い経験
しばらくして、現地の日本人ビジネスコンサルタントと契約し、アドバイスを仰ぎながらオフィスを借りることになりました。オフィスと言っても箱だけで、デスクも椅子も電話も何もありません。先ずはOffice Depotというオフィス家具の専門ホームセンターに行き机・椅子・ホワイトボード等々購入し、次にPC Depot(パソコン専門店)で社員の人数分のパソコンを購入。NTTのような電話会社に出向き、ビジネス用の回線を発注しました。人数分の内線について説明するのが大変だったと記憶しています。また、当初は5人で2台の車を共有していましたが、社員も増えることになったのでレンタカー会社と7台ほどレンタル契約をし、ビートルやトーラスなど、日本ではなかなか乗れないような車種を乗ることができたのは良い経験になったと思います。
立上メンバーは5人でしたが、その後12名増員することになり合計17名分のアパートを契約することになりました。就労VISAを持たない社員の契約などできるのだろうか?と不安に思いましたが交渉の末、契約することができたので逆にこちらが驚きました。実は、この会社の社長は海外進出が初めてで相当甘い考えを持っていました。なんと、観光VISAで、3か月毎アメリカと日本の入出国を繰り返せばよいという危険な発想だったのです。ビジネスコンサルタントからも現地で就労するためには就労VISAが必要だと何度も説明を受けているのに社長は自説を曲げませんでした。不安を覚えた私は何度も社長に直談判した結果、会社で就労VISAの申請をして貰えることになりました。本来は会社が前もって準備をしなければならないことなのに、社員から散々説得をされて漸く重い腰を上げるような姿勢に憤りを感じていましたが、既に入社しアメリカに来てしまっているので辞める訳にもいきません。やれることを最大限やるだけだ、と腹をくくりました。
N.Y. 同時多発テロで就労VISAが取れない
一旦、話しが決まれば後はコンサルに依頼すればある程度のことは進めてくれるので気持ちが楽になりました。後は申請書類に必要な証明書を日本から取り寄せたり、申請書類に必要事項を記入したり、手続きはスムーズに進んでいました。ニューヨーク同時多発テロが発生するまでは。ある朝、会社に行こうと準備をしているとTVでニューヨークのツインタワーが崩壊している映像が流れていて、同僚が騒ぎ始めました。まさかそんなことが起こるとは夢にも思わないので信じられない気持ちで取り敢えず出社したのです。通常業務をするために、取引先などに電話しても繋がらず、辛うじて携帯電話で1社のみ連絡が取れたので確認すると、ダウンタウンの業者は郊外に退避していると教えて貰えました。
次の標的はサンフランシスコか、ロサンゼルスかとニュースで伝えられたため街は騒然とし、覚悟を決めなければならないのかと思いました。私たちの会社と住居はL.A.でも比較的治安の良い場所に位置していたのですが、恐怖を感じずにはいられませんでした。正直、あれほど望んだ就労VISAもどうでも良くなったくらいです。しばらくして、騒動が落ち着いたので手続きを進めようとすると、弁護士から見込薄との宣告を受けました。中東系の外国人にはVISAを発給しないところから波及してアジア人やその他の外国人も排斥する方向に動きだしたというのです。それはそうですよね、あわやペンタゴンも攻撃を受けるところだった状況下、アメリカ側の意向も理解できました。同時多発テロが原因でVISAを失った人もいるので文句は言えません。
2002年:L.A.から日本帰国
結局は仕事は軌道に乗らず、会社自体閉鎖となりやむなく日本帰国することになったのです。 L.A.の空港まで運転してくれたインド人タクシードライバーが身の上話しをしてくれたのですが、外見が中東系にも見えるので会社で差別に合い、仕方なくタクシーを運転しているとのことでした。外国で暮らすには様々な障壁を乗り越えないといけないのですが、今回の障壁は自分の努力で何とかなる範囲を超えていたのでおとなしく日本帰国することにしました。ロサンゼルス空港に到着するといつもより人が多く、騒然としていたのでどうしたのかチェックインカウンターで聞いたところ午前中に無差別発砲事件があった、とのことでした。それでも私の乗るフライトは運行しており、大混乱の中、間一髪で搭乗することができました。たった2年でしたが、濃い~経験をさせて貰えたと感慨に浸りながらアメリカを後にしたのでした。。。